モーツァルト ピアノ協奏曲21番




靴磨きのおじさん

 
 人は不思議な生きものである。人生で一体何人もの人と邂逅(であい)があるのであろうか。この歳になると無性に青春時代にであった方々に会いたくなる・・・


 僕が銀座と言えば、当然東京は京橋と新橋に挟まれた街銀座を指す。当時の天下の銀座四丁目交差店は、銀座三越、日産ギャラリー、スリーダイヤモンドのネオンを頂いた三愛円柱ビル、そして石作りの和光(服部時計店)に囲まれていた。僕が書生をしながら大学に通わせて頂いた恩師の法律事務所は、晴海通りに面した和光の隣りにある、浜一ビルの4階の全フロアであった・・・


 ある日のこと、先生のお使いを足して事務所に帰って来たときであった。銀座四丁目の和光口から地下道を登ると、正面に浜一ビルの電光ニュース板の黄色い電球群が、いつものとおり「お帰り」と僕を出迎えてくれる。一階の日興證券のカウンターは、今日も商売繁盛で投資家とせわしい様子であった。


 「こんにちは」と僕は、浜一ビル脇で露天の靴磨きのおじさんにあいさつを交わす。このおじさんは、僕が弁護士の書生となって以来、銀座であいさつを交わす言わば限られた御仁の一人であった。あいさつを交わす人は、先生は当然としてビルの管理人の老夫婦、先生が顧問をされている不動産会社の皆さん、3階の電光ニュース配信会社の面々、証券会社の女子事務員、最上階にある眼科医の先生と看護婦さん・・・みんなこの浜一ビルで生計を立てている皆さんである。



  「書生さん、書生さん!」


 と呼び止められたので、ビルに入ろうとした僕は、靴磨きのおじさんの前まで引き返した。すると・・・


  「書生さん! 靴を磨いて上げるから、いいからここに座んなさい!」

 と半ば強制的に椅子に座らされた。


 椅子に座りながら足元を見ていると、僕の靴の汚れをブラシで落とした。クリームをぬり汚れをとり除くと、靴墨を染みこませるように塗った。更に湿った布で革をキュキュとしごくと、革靴は俄かにピンピカに艶がでた。無料だのに手抜きもしないで丁寧に私の靴を磨いてくれた。


 僕はこの靴磨きのおじさんの名前は知らない。考えてみれば名前を名乗りあげたこともないのに、いつのまにかあいさつを交わすようになっていた。おじさんは雨の日や風の強い日以外は、この「文化通り」の浜一ビル脇を定位置として靴磨きをしている銀座の主であった。


 二十歳の僕の眼には、このおじさんの歳のころは六十前後か?髭も鬢も白髪であった。ぶ厚い眼鏡のレンズの奥には、苦労を砂で噛んできたことを思わせる鋭い眼差しが光っていたが、それとは裏腹に喋り方は至って丁寧であった。きっと想像できない苦労をされた人生なのであろうかと、おじさんの動作の一部始終を眺めていたら・・・



  「書生さん、書生さんはいつも私にあいさつをしてくれますね。ありがとう。
   とても嬉しいんだ。」

  「・・・・・・・・・」

  「弁護士さんのお使いのお帰りで?」

  「はい」

  「書生さん、法律の勉強は面白いですか?
   法律のことは、私はちっともわからない世界ですがね・・・」

  「面白いです!」

  「しっかり勉強されて立派な大人になってくださいよ!
   書生さんは将来きっと偉くなる人だ。偉くなるには足元が大事なんだよ!」

  「はい」

  「お国はどこで?えっ長野!お父さんやお母さんもご健在でいなさるので・・・」

  「さぁできた!靴を磨くことは造作もないことでさぁ。いつでも磨いてあげるから
   声をかけてくださいよ。
   書生さん頑張って勉強して、偉い人になってくださいな!」

  「おじさんありがとう」

  「うん。頼みましたよ」



 僕は靴磨きのおじさんに、感謝の一礼をしてから事務所に戻った。靴磨きのおじさんは、新聞に載ったりする程の銀座の有名人であられたことは、後年知ることとなるが、私にとって数少ない言葉を交わす銀座の友人であった。


 東京に田舎から出たものならば、誰しも経験することであるが、それは朝夕のあいさつを交わす人が全くいないことである。僕にとって幸したことは、浜一ビルで働いている人たちは、同じ屋根の下で時間を過ごす連帯感がそうさせたのか、心ある人たちであったこともあり、誰とでもあいさつを交わすことが出来た。田舎出がとかく陥る孤独に、僕は陥らないで済んだと言える。靴磨きのおじさんとの交流は、あいさつこそが人の始まりであることを教えて頂いたと感じる。